歴史調査03でもお話したように東京薬科大の薬草園、グランウンド(球場)の歴史を知るには、大学の史料館では限界がありましたが、大学の同窓会の「東薬会」には、とうやく会報の「とうやく」という会報誌があることがわかりました。現在411号という歴史のある同窓会報で年3回、1月・5月・9月に発行されています。同大学の同窓会「東薬会」の公式サイト(こちら)にあった東薬会事務局に昨年末に連絡をしたところ、同窓生でないと事務局で会報を閲覧できないとのことでした。しかし、事務局の方のご厚意で、小金井の薬草園についての想い出などが投稿された号を探していただくことができました。
今回は、その第1弾として、1983年の9月号No.297に掲載された「旧校地はいま(3)」という投稿をご紹介します。3本の投稿なので、3回に分けてご紹介します。その当時の薬草園とそこに関わった大学の方々の想いや周辺の地域のことなどが読み取れます。
投稿された3人の方を、古い順にご紹介します。肩書は、1983年当時のものです。
東京薬科大学教授 下村裕子(専門13)先生、東京薬科大学教授 川瀬清(専門27)先生、東京薬科大学学長 宮崎利夫(専門30)先生のお三方です。
その1の今回は、下村裕子先生の寄稿文の内容をご紹介しようと思います。ちなみに前学習として、下村東京薬科大学名誉教授でした。残念ながら、平成25に逝去されています。東薬会の副会長も務められた方です。
投稿は、この投稿の昭和58年6月10日にこの薬草園が売却される寸前に訪問した際の想い出です。この当時には、東小金井駅はできており、雨の降る中を薬草園跡を訪ねられたようです。駅前の国際ゴルフセンター(練習場)と農工大を見ながら、かろうじて元薬草園と分かる緑地となっていたこの場所に通われたのは、「アメリカンシロヒトリの大量発生で、新米園長(八王子新校舎の薬草園のこと)の自分が小金井市からの苦情で駆け付けた」という理由だとされています。以下に投稿より、その当時の事情を転載します。
<転載、部分>
売れる寸前の出来事である。それより以前、大学のキャンパス移転計画が進行中、前園長・角倉教授が定年退職され、それまで園を守ってきた園丁夫妻も職を辞し、一方私は新キャンパス内に薬用植物園を作る場所の選定を目的に、新校地全体の植生調査に時間を割いていた。同じ頃、土地購入代金の一部にあてるため、可処分資産として売却折衝が具体化したこともあって、事実上小金井薬草園の整備は停止状態となり、(昭和)46年4月からは草本性の薬用植物を、女子部勤務の用務員と植物研究部有志の助力を得て運び出す細々とした作業のために園に歩を運ぶ程度となっていた。
<転載、以上>
この部分からは、売却前の園長が角倉教授で、園には管理する園丁夫妻がおられたことがわかります。昭和46年4月からの草本性の植物運び出しという作業があったことがわかりました。そして、その1年後には、管理舎が無人となって数日後に大本類がショベルカーで掘られたか、大量に姿を消してしまった事件のあったことを嘆いておられます。それまで、近くの住民に散策の場として親しまれた薬草園がその後、半年足らずで、雑草園と化し、背の高い帰化植物の繁茂や投げ捨てたタバコによる火災などの危険さえ感じられるようになったようです。その後、小金井市の所有となり、安堵したそうです。この時の訪問は、残された木々との出会いの期待と不安の入り混じった状況だったようです。具体的な様子について書かれた部分を以下に転載します。
<転載、部分>
旧薬草園は鉄線を張った荒い柵によって囲まれていた。
しかし、駅に出るための最短距離の小路がほぼ対角線に通っていて、そのはずれである北東の角が開いていたので、園内への侵入は容易で、散策は自由である。
関東ローム層の黒土が露出している踏み跡の小路は、水たまりを避ける苦労はしたが、畑地が変わった広大な原っぱは刈ってある草が半ばのびて、びっしょり濡れ、私たちの進入を許さない。小雨に煙るせいも手伝ってか、敷地は特に広く感じられ、遠望では周囲の植栽にさした変化が無いように思われる。(中略)
肥料小舎と西側近くの管理舎は取り払われ、その跡さえ見当たらないが、その付近にあった何本かのムクノキは主の風格をもってそびえ立ち、その間にサッサフラス、センダン、キササゲがのびのびと生育を続けている。見本園の区画の一部をなしていたナツメにはたくさんの小さな花が着き、一列に植えられているチャには新芽がのびている。一抱え以上に太くなったキハダも数本あって、これらの樹種から薬草園跡地を垣間見ることはできたものの、アカヤジオウやポドフイルムなどの花の美しかった栽培園は、昔を忍ぶよしもない原っぱになってしまったのに加えて、樹陰の築山には角倉教授や当時の植物研究部の人々が集めた貴重な多種の山草のうち一種だに見ることができない。
<転載、以上>
これらの樹木は、その後の栗山公園の造成時にどこまで生かされたのかは、当時の植栽工事図面も観てみないと解らないのですが、少なくともムクノキはその当時の主と言われるほどのものではなく、対して、センダンはかなりの数が現在も見られます。
そして、薬草園周囲を見渡して、「農工大敷地との間の道はそのままであるが、農工大通りを距てた南側と園の北側隣接地にはアパートが建って、人口密度は緩慢に増加している様子である」と延べられています。また、この園に通った当時の記憶として、「帰路は農工大の正門前を通って、小金井駅へ、東小金井駅ができる前はこの道か、武蔵境駅への道を利用した。」と想い出を語られています。また、寄稿文に出てくる植物品種の説明は、各品種名称に情報リンクを貼っておりきましたのでそのリンクをご覧ください。薬草園ならではのもののあり、この当時の生薬研究の歴史とも一緒に見て行くと興味深いものがあります。
<その1、了・その2へ>
ご紹介ありがとうございます。