東薬会会報の「とうやく」297号の寄稿文に当時の小金井薬用植物園を読むの3回シリーズも最後の3回目になります。
今回の寄稿者は、この会報が発行された1983年当時に学長(昭和56年学長就任)だった宮崎利夫教授です。
氏は、当時の恩師の太田達男教授(昭和24年より東京薬科大学教授で昭和36年に死去)が微生物学と植物薬品化学を担当、薬草園長も兼任されていたため、昭和24年3月に大学卒業と同時に助手の辞令を受けて、附属薬用植物試験場担当兼務ということのなったと説明されています。当時の太田研究室には、黒須滋先生(昭和57年死去)が助教授、氏の1年先輩の宮村次郎氏が助手として在籍していたが、なんとかもう一名ということで薬草園も兼務するという名目で宮崎氏を採用されたそうです。そして、具体的な薬草園での作業などを語られています。その内容を以下に転載します。
<転載部分>
まじめな(太田)先生は、薬草園の管理、運営に熱心に取り組まれ、筆者を連れて、よく小金井に通われた。
少しでも形を整え、収益を上げたいとエビスグサやアメリカアリタソウなどを大量に栽培し、関係者に買ってもらったりしたこともある。初めの頃は、川瀬清先生(前回第2回の寄稿者)と三人で、区別のための縄張りをし、隅々に植樹して1日が暮れてしまったこともあった。
研究一途な先生は、研究材料の確保にも力を注がれ、いろいろなプランを実行された。いずれ大きくなったらその樹皮成分をやるつもりで苗木を植えたセンダンやトウセンダンはずいぶん育ったのに、到々、着手しないままで終わってしまった。しかし、栽培以外では入手しにくいヘンルーダの果皮のアルカロイド、同種子の脂肪酸をはじめ、ウイキョウ葉のフラボノイド、カントウイカリソウのフラボノイドなど小金井薬草園栽培品を材料としたものも幸いそれぞれ報文化することができたので、薬草園担当兼務もつらくはあったが、満更ではなかったと思っている。(中略)
小金井薬草園の思いでで忘れ得ないのは、何回かあった植物研究部の諸君との泊まり込み作業である。薬草園の一隅に住宅があり、作業小屋にも泊まることはできた。採集旅行の思い出や、彼や彼女のことを熱っぽく夜半まで語り合ったり、ゲームに興じたり、朝はとても眠く、つらかったが、とても楽しかった。(中略)
昭和29年4月森陽氏(当時、第一生化学教授)が太田研究室の二人目の助手となった頃には、筆者も薬草園の単純労働からは殆ど解放されていた。
東小金井駅ができて、あの懐かしい桜並木(薬草園の境界となっていた)も消え、売却も決まっていら、あそこを全く訪れていない。今でも行っていないので、どうなっているかわからない。忙しかったせいもあるが、青春の何日か、何十日かを真剣にぶっつけた“場”の余りにもはげしい変貌を見たくなかったというのが本音である。
<転載、以上>
多くの学生や助手が泊まり込みで作業をしていたことがわかります。作業小屋や住宅の位置もわかると良いのですが、まだまだ、当時の思いでを語っていただいたり、この薬草園の周辺のお話なども聞ける同窓生、先生方がおられるように思います。次回はそうした方々へのアプローチも考えていきたいと思います。
<その3、了>