小金井市環境市民会議
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田んぼ物語

【7】 「子どものしごと」

稲刈りの少し前、祖父と父が、10メートル近い長さの木を使って、稲の長さで四段から五段の高さにまで稲を掛けられるよう組み上げてゆく。この「イナキ」と呼ばれるものが集落のあちこちに建つと、またも風景はがらりと変わって見えてくる。
山間部のイナキは少しでも多く日の光を浴びようと、ことさら高く建てられる。

ザク、ザク、ザクと音を立て、リズムを取るようにきれいに刈り取っていく祖母の稲刈り姿は、まるで稲を刈る生きもののように無駄がなく鮮やかだった。稲束を刈るなんともいえない爽快な音が今も耳に残っている。
子どもはというと、稲刈りではあまり当てにされない。むしろ、このイナキに稲を掛けるときにこそ子どものしごとがある。 下の一、二段目までは大人たちで手際よく掛けられるが、三段目四段目になると体重の軽い子供たちがイナキに登り、投げ上げられる稲束を順に受け取りながら掛けてゆく。
「ほい」と声をかけ、手を伸ばすだけで稲の縛り口をつかめるよう、ピタッと止まるように上手く投げ上げてくれるのが祖父だった。へたに投げてしまうと無理な姿勢で手を伸ばしてしまい、とても危険な事を承知していたのだ。上手く取れないときは手を出さないように言われているので、届かなかった稲束が地上に吸い込まれるように落ちていくと、再びすぐに祖父の手によって手元に投げ戻される。投げ上げられる毎にひしひしと祖父の思いが腕に伝わってくる。
しかし、さすがに大量の稲束と単純な動きの繰り返しにホトホト厭きてしまい、下界に降りたいと訴えたが、もう少しと言って許してもらえなかった。大人にとっては遊びではないので、その日の内に終わらせたいのだ。
深い青の秋空がやがてあかね色にかわると、あまりに辛くて五段イナキのてっぺんで大声で泣き伏した。
10メートル近い高さのイナキから自分の泣き声ががらんとした田んぼに響き渡ると、夕焼け空をカラスが笑いながら飛んでいった。

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【6】 「蛍のひかり」」

 農事組合の寄り合いから帰ってきた祖父のごつごつした手を開くと、そこから光の点が立ち昇った。蛍の季節がやってきたのだ。
夕食を終え、浴衣に着替え八時少し前。さそい合わせた近所の子ども達と萬家(よろずや)に集まる。
 萬家と屋号で呼ばれていた商店が夜でも少し明るくなっていて、店の脇から畦道を山手に向かって歩くと、辺りはどんどん暗くなって行く。暗闇が恐ろしい年頃には、もうそれだけで十分な冒険だ。まだ青い稲の上を風が波音をたてて過ぎてゆくと、かぼそい声で唄が始まる。「ほ、ほ、ほたるこい、こっちの水はあまいぞ。そっちの水はにがいぞ…」
 暗闇に慣れない目でせまい畦道を進むと、突然「ボチャン」と何かが落ちる音。後ろを歩いていたはずの弟が水口(田んぼの取水口)に落ちている。子ども達が一斉に笑う。姿は見えないがカエルたちの声が一瞬静まり返る。
膝までびしょ濡れになって泣いている弟をなだめすかし、落ち着いたところで顔を上げると、小さな青味がかった黄色い光の点がふわりと横切った。真っ暗な田んぼの見渡す限り小さな光の点が浮かんだり止まったりしている。カエルたちの声が一層騒がしくなる。
 梅雨の合間の雨上がり。空には満天の星、地上にも無数の光。あまりにも美しい光景を前に気持ちが悪くなくなるような妙な感覚があった。

 開け放した夏の寝床には蚊帳(かや)が吊られ、泥んこの浴衣を着替えて潜り込むと、捕まえてきた蛍を蚊帳の中に放す。ふわりふわりと蛍の舞う大きな虫かごの中で、一匹の虫になったような不思議な気持ちで眠った。
 朝になると蛍のすがたは消えていた。短い命、祖父がそっと逃がしていたのだった。

瀧本広子
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【5】「ニッポニア・ニッポン」


 新潟長岡の法末へ「鳥追い」行事の復活に同行する機会があった。
田んぼから追われる鳥といえば、まずスズメが一番に思い出されるが、調べてみると、あの朱鷺(トキ)も追われる鳥に含まれていることがわかった。ひと山超えた魚沼地方に残る鳥追い唄には「佐渡ヶ島まで追ってった」という文言もあるという。事実、佐渡だけに朱鷺は残っている…。
 ドジョウを求めて植えたばかりの田んぼに入っては苗を踏み荒らしていたのだろう。ドジョウは人にとっても貴重な蛋白源。命の糧をめぐって人と朱鷺はもっと至近距離で向き合っていたに違いない。
 「追う」という行動も気にかかる。防鳥とか駆除と言う発想になりそうなのに、追い払うだけ。そこには、追い払いながらもゆるやかに棲み分け共存する発想が見える。「ほーい、ほい」と言う唄の掛け声にはそんな優しさがある。
 それにしても、追い払うほどに朱鷺がいたということなのだ。

 夜、子ども達の「鳥追い」について集落を練り歩くと、明かりのない家(空家)の多さに気づき、震災の爪跡と限界集落の現実を見た。
 子ども達の鳥追い唄が響いたのは何十年ぶりなのだろうか。朱鷺もさることながら、かつて鳥を追っていた「子ども」たちも姿を消している。
                       瀧本 広子



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【4】「彼岸の花」


 田園が一面黄金色に染まる頃、いよいよ刈り取り準備も始まる。
黄色い絨毯のあちこちに赤い点がポツポツ現れたかと思うと、あっという間に畦を覆うほどの彼岸花がいっせいに開花する。
黄色に赤色の組み合わせは中々出来る配色ではない。稲の一年を締めくくる最後のお祭りのように華やかだ。
 祖母を亡くした翌年(小4の年)学校の帰りに彼岸花を摘んだ。ものすごく綺麗だし、祖母は田んぼが好きだった。新しい仏前に、おはぎと一緒に飾ってあげようと思いついたが、玄関で母に止められた。「彼岸花を家に入れると火事になるから捨ておいで」と言いながら。いかにも迷信くさい。だけど花の形を見ていると炎のようにも見える。本当なのか? 他の地域にもこんな言い伝えがあるのだろうか……?
 後から考えると、彼岸花は畦を丁寧に草刈りしないときれいに咲かないらしい。現在、実家近くの田んぼでは、減反が進み、高齢化が進み、除草剤も普及し、畦草刈りを減らしたためか、彼岸花を見なくなった。
 また、彼岸花は勝手に生えてくるのではなく、植えられたものであることがわかった。多年草で、球根に毒があり、モグラの田んぼへの侵入を防ぐものらしい。モグラの穴は田んぼの水抜けの原因になる。
 田んぼでは度々一石二鳥が起こる。水抜け防止と美しい風景。案外この迷信は、この二つを守るよう諭すために作られたのかもしれない。
美しい風景は人々が手を入れて創られていたことがよくわかる。
 それにしても、いつ炎を上げてもおかしくない異質な気配をもつ花ではある。

                       瀧本 広子



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【3】「アカハライモリ」文 瀧本広子


 田植えを手伝わせてもらえるのは5年生くらいからだろうか。それまでは、田んぼの周りで遊んでばかりいる。
 3年生くらいの頃、父、母、祖父母たちが田植え(この時代は手植え)に励んでいる傍で、私は弟と生きものを集めて遊んでいた。サワガニ、殿様ガエル、ミズカマキリ、ゲンゴロウ、タニシ…思えば数え切れないくらいの生きものが田んぼには生きづいていたのだ。
 夢中でカエルを追いかけてつい田んぼの中に入ろうとすると、すぐに遠くから叱られた。3年生くらいだと、田んぼをただ足跡だらけにするだけなのだ。遊びたい盛り、根気良く田植えを手伝うほどの気力もない。足跡がどれほど田植えの障害になるかは大人になるまでわからない。したがって、ただ叱られるだけ。
 いつもは物静かでやさしい祖父に朝から何度も叱られて、その日はなんとなくつまらない気持ちでカエルを捕まえていた。すると祖父はそんな私をかわいそうに思ったのだろうか、何か生きものを投げてくれた。「ひろこ、きれいな色や、見てみ!」にわかに祖父が優しくなったと思えない私は、うずくまったまま顔だけ祖父の方にむけた。そのとたん目の前が真っ赤になった。左眼に赤い物体がまともにぶつかったのだ。腹の赤いその生きものを捕らえつつ、左眼をつい擦ってしまった。そのとたん激しく痛みだし、私は大声で泣き出した。母が田んぼの中を駆け寄ってきてくれたが、なんだか歩き方がおかしい。盆踊りのように足をヒラヒラさせている。自分の足跡を消しながら、あわててこちらに向かっているのだ。
 母に沢水で目を洗ってもらったが、左眼はほとんど開かないほど見事に腫れあがった。手に捕らえたままの「アカハライモリ」には少し毒があるらしい。祖父は後で母に叱られたようで、その日は少し小さく見えた。まだ開く右目で見たイモリ腹の燃えるような赤色を今でも忘れることができない。
 「アカハライモリ」準絶滅危惧種。
 もう一度あの赤い色に逢いたい。



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【2】  その2  瀧本広子

 春。ここ小金井でも、春を感じる自然の変化をみることができる。
 くじら山の柳のやわらかな緑。小金井公園の桜。でも田園の広がる村々の春は風景を劇的に変えてしまう。山々は様々なうす緑色を帯び、色彩の多様さは秋の紅葉に近い。里に梅、桃、桜が順を追って咲き始め、灰色に静まり返っていた田んぼが耕起されると、土が黒々と蘇る。
 やがて、ため池の水門が開かれ、山手の田んぼから順に水鏡が広がる。代掻きが終わる頃には、家々はまるで湖に浮かんだ小さな島のようだ。風のない晴れた日には木々、家々、山々、そして空が田んぼに映りこみ逆転した世界が現れる。いつもの学校への道が、一夜にして湖にかかった一本橋のようになる。細く頼りない道。
 そしてそこにもうひとつの大きな変化が現れる。音。カエルの声だ。夕暮れから夜中まで、日中でも雨の来る少し前はひときわ大合唱となる。そしてその音は夏の終わり、お盆の頃まで梅雨をピークにつづく。
 
 上京して初めての春。突然、夜眠れなくなった。何故だかわからない。何か理由があるとすれば、静か過ぎることだった。街の夜は全く何の音もしなかった。実家に電話して「あまり眠れない」と話すと、父は小さな荷物を送ってきた。中にはカセットテープが入っていた。再生すると田んぼで鳴くカエルの声が1時間も続いた。
 その音を聞きながら、久しぶりに眠りについた。今でも春になると静けさに夜中、目が覚めることがある。幼い頃の自分が、大自然の環境の中の一部だったことを思い出す瞬間だ。


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【1】  「ため池の声」  文 瀧本広子

 子どもの頃、私の住む集落の子は誰もが農家の子どもで、田んぼや水路や山が遊び場だった。特に子どもの好奇心を刺激していたのは、集落の裏手の山にある、深く大きなため池だ。その為どこの家の子どもも「ため池では、遊んでならぬ」ときつく約束させられていた。
 ある夏休みの終わり頃、山や川を遊び尽くした何人かの子ども達と私は、ため池の探検をする相談をした。「ため池には行ったらあかんよ!」と言う時の母の目が頭の中でチラチラ私を見ている。
 だが「行ってはいけない」親=「行ってみたい」子どもの気持ちはもう止らない。その上、ため池には無気味な声を聞いたというウワサもあって、私たち探検団の好奇心はため池に向かってつっぱしって行った。そこには、夏でも涼しい林の中に深い緑色をしたため池があった。水面に木々が逆さに映り、とても静かだった。ふと池のほとりを見ると、不思議な鎖とワイヤーがつながれ、鈍くどんよりとその体を横たえていた。見るとワイヤーが池の深みに向かって伸びている。池に石を投げ込んで遊ぶ事にも飽きてきた探検団がそれを見逃す筈はない。
 ワイヤーを引っ張ってみる。その途端、池の底から湧きあがるように「ゴウオーーーーーー。」という音が響き渡り、探検団は何かとんでもないことが起きた事に青くなって逃げ出した。「無気味な声がする」というのは、本当だったのだ!
 翌朝、稲刈り前に田んぼを乾かす水きりをひかえた集落の田んぼが水浸しになり、騒ぎになった。実はワイヤーの先には、ため池の栓がが付いており、探検団は集落全体の水路に続く排水口を開けてしまったのだった。私は祖父にこっぴどく叱られ、土蔵に2時間閉じ込められた。
 あれから何年たっただろう。子どもの頃は、約束を守らなかった事、怖かった事以外何が悪かったのかわからなかったそれらの思い出が今、深く味わえる年齢になった。大人達の心配がわかり、田んぼを水浸しにしたことの大変さもわかるようになった。田んぼに入った日は、あの田んぼの風景とともに、土蔵で泣いていた子どもの頃の私を許し、外に出してくれた時のふっくらと優しくそして力強い祖父の手が私の手に甦って来る。

編集:田んぼの時間かわら版屋


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